止まっていた宇宙が動き出す:ハッブルの法則と宇宙膨張の物語
静止していた宇宙の常識と、その揺らぎ
私たちの住むこの広大な宇宙は、一体どのような姿をしているのでしょうか。古くから人々は、宇宙は永遠に変わらない、静かで不動のものだと考えてきました。ルネサンス以降、ニコラウス・コペルニクスやガリレオ・ガリレイ、ヨハネス・ケプラーといった偉大な科学者たちが、地球が宇宙の中心ではないことを明らかにし、太陽系の運動を解き明かしていきましたが、宇宙全体が膨張したり収縮したりするという発想は、ほとんどありませんでした。
20世紀初頭、アインシュタインがその革命的な一般相対性理論を発表しました。この理論は、重力というものが、時間と空間の織りなす「時空」のゆがみとして現れるという、驚くべき概念を提示しました。アインシュタイン自身も、この理論を宇宙全体に適用する際、宇宙が収縮してしまうという計算結果に直面します。当時の宇宙は静的であるという揺るぎない常識があったため、彼は自身の理論に「宇宙定数」という項目をあえて付け加えることで、宇宙が膨縮しないように調整しました。後に、この宇宙定数を導入したことを「生涯最大の過ち」と語ったのは有名な逸話です。しかし、その後の発見を振り返ると、彼のこの"過ち"には、ある種の先見の明があったとも言えるでしょう。
遠い宇宙の光を求めて:観測天文学の夜明け
宇宙が静的ではないかもしれないという可能性が、理論だけでなく、観測によっても示され始めます。その道を切り拓いたのが、星の光を読み解く観測天文学者たちでした。
初期の天文学者たちは、夜空に輝く「星雲」と呼ばれるモヤモヤとした天体が何であるか、正確には知りませんでした。それが私たちの銀河系の内部にあるガスや塵の集まりなのか、それともはるか遠くにある、私たちの銀河とは別の「島宇宙」なのか、激しい議論が交わされました。この「シャプレー・カーティス論争」は、当時の天文学界の大きな焦点の一つでした。
この謎を解き明かす鍵となったのが、「ケフェイド変光星」という特別な種類の星です。これらの星は、周期的に明るさが変わる性質を持ち、その明るさの変化の周期が長いほど、星そのものの明るさが大きいという、非常に便利な関係性を持っていることが発見されました。この画期的な発見をしたのが、女性天文学者のヘンリエッタ・スワン・レヴィットです。彼女の法則は、まるで宇宙に物差しを置くかのように、星までの距離を正確に測ることを可能にしました。
そして、この「宇宙の物差し」を手に、広大な宇宙の観測に挑んだのが、エドウィン・ハッブルです。彼は、当時世界最大の望遠鏡であるフーカ望遠鏡を使い、アンドロメダ星雲の中にケフェイド変光星を発見します。レヴィットの法則を適用することで、ハッブルはアンドロメダ星雲が私たちの銀河系のはるか外にある、独立した巨大な銀河であることを証明し、宇宙に無数の銀河が存在するという「島宇宙」説に決着をつけました。これは、宇宙の広大さに関する私たちの認識を、一気に拡大させる出来事でした。
宇宙が「後退」している?:銀河の速度測定
ハッブルが遠い銀河の存在を明らかにする一方で、別の重要な観測も進められていました。アメリカの天文学者ヴェスト・スライファーは、遠くの銀河から届く光の色が、地球上で観測するよりもわずかに「赤っぽい」ことに気づいていました。これは「赤方偏移」と呼ばれる現象で、光を発する天体が私たちから遠ざかっているときに生じます。ちょうど、救急車のサイレンの音が近づくときは高く、遠ざかる時は低く聞こえるドップラー効果と似た現象です。スライファーは、多くの銀河が私たちから猛スピードで遠ざかっていることを突き止めていたのです。
この観測結果に、ベルギーの宇宙論研究者ジョルジュ・ルメールは注目しました。彼は、アインシュタインの一般相対性理論を独自に解き明かし、静的な宇宙ではなく、宇宙全体が膨張しているというモデルを提唱しました。ルメールは、スライファーの観測とアインシュタインの理論を結びつけ、「宇宙は一点から始まった」という、後の「ビッグバン理論」の萌芽となる考えを提示しました。
しかし、ルメールの理論は、当時の主流からはなかなか受け入れられませんでした。彼には、その理論を裏付ける十分な観測データが不足していたからです。ここで再び、ハッブルの観測が重要な意味を持ってきます。
ハッブルの法則の誕生と宇宙観の変革
ハッブルは、自身の観測によって遠い銀河までの距離を測定し、同時にスライファーの観測データを利用して、それらの銀河が私たちからどれくらいの速度で遠ざかっているかを突き合わせました。そして、驚くべきことに、彼はある単純な関係性を見出したのです。それは、「銀河が遠ければ遠いほど、私たちから遠ざかる速度が速い」というものでした。
この関係性は、後に「ハッブルの法則」と呼ばれるようになります。これは、まるで風船を膨らませたときに、風船の表面に描かれた点が、互いに離れていくようなものです。点が風船の表面を移動しているわけではなく、風船そのものが膨らんでいるために、点と点の間隔が広がるのです。同様に、銀河が空間の中を移動しているのではなく、空間そのものが膨張しているために、銀河同士の間隔が広がっていく、ということを示唆していました。
この発見は、静的だと信じられてきた宇宙の常識を根底から覆すものでした。宇宙は止まっていたのではなく、ダイナミックに膨張しているという、新たな宇宙像が確立されたのです。
ハッブルの法則がもたらした影響と未来への展望
ハッブルの法則は、その後の宇宙論に計り知れない影響を与えました。
第一に、宇宙が膨張しているという事実から、時間を遡れば宇宙はより小さく、密度が高かったはずだという考えが自然に導かれました。これは、宇宙が非常に高温で高密度の状態から始まったとする「ビッグバン理論」の強力な根拠となっていきます。
第二に、ハッブルの法則は、宇宙の年齢を推定する手がかりを与えました。銀河の遠ざかる速度が分かれば、どれくらいの時間をかけて現在の大きさになったのかを逆算できるためです。初期の推定では宇宙の年齢は比較的若く見積もられましたが、その後の観測技術の進歩によって、より精密な値が算出されています。
ハッブルの法則によって、私たちは宇宙の誕生と進化の物語を語り始めることができるようになりました。私たちの宇宙は、決して静止したものではなく、常に変化し、進化し続けているという認識は、現代宇宙論の基礎をなしています。
現在でも、ハッブルの法則の比例定数である「ハッブル定数」の正確な値は、宇宙の謎を解き明かす重要な手がかりとなっています。最新の観測データを用いることで、この定数をより精密に測定し、宇宙の膨張の速度や、宇宙の構成要素、そして宇宙の未来の姿について、私たちはさらなる理解を深めようとしているのです。ハッブルの発見は、私たちを宇宙の深淵へと誘う、壮大な旅の始まりだったと言えるでしょう。